いけがみちずこの「安心できるともっと感じるコラム」

からだってなんだろう

 このところ通勤沿線で人身事故が多いのです。首都圏で人身事故による電車の遅延といえばJRのC線と相場が決まっていて、わたしの使うJRのK線ではせいぜい信号機故障くらいしかなかったのに立て続けの人身事故です。「ただいま警察による現場検証中です。いましばらくお待ちください」というアナウンスを車中で初めて聞きました。



 どんな事故かはわかりませんが、不景気になると「飛び込み」が増えると聞きました。中高年の男性(多くは父親であり夫である)の自殺が交通事故死をはるかに上回る一方で、大阪ではタクシー強盗が相次ぎ、運転手の命と換えに奪われるのは10万円以下の売上金。



 「身分制度は親の仇でござる」と喝破し「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と宣言した下級武士の息子・福沢諭吉、その福沢諭吉が万札に登場してから皮肉にも「カネがすべて」の風潮、年収200万円以下では80%が恋人もいない、というデータまでだされると、「拝金主義は親の仇でござる」といいたくなる。



 でも、カネっていったいなんなのでしょう。



 おカネとはじつはたんなる紙切れで、つくりごとの仕組みで流通しているだけだから、仕組みが崩れればパー。第一次大戦に敗れたドイツはマルクが急降下。リュックに数億マルクをつめこんで一袋のジャガイモを買っているおじさんの写真、高校の歴史の教科書に載っていた。でもジャガイモが買えればまだいい。エイズパニックが吹き荒れた80年代初期のアメリカ、いかにドルを積もうとも患者は医療に診療を拒否され、昨日まで住んでいたアパートをおいだされた。昨日まで当たり前に通用していた自分のカネとサービスの交換が、とつぜん不可能になる。カネさえあればなんとかなる、と信じていたけれど、それはただの幻想だった。



この世でたしかに当てにできるものはあるのだろうか?



世の中がどうなろうと変わらずに自分のものだといえるものはあるのだろうか?



ひとつあるよね。そう、それは自分のからだ。これだけはたしかに一生自分のものだ。





だから、自分のからだを大事にしよう。一生じょうずにつきあいましょう。



とまあこんなことを中学や高校で語ってきたのだけれど、先日、とつぜん絶句してしまった。



自分のからだって、それってどーいうことなのだろう? 自分のからだというけれど、ほんとうに自分のものなのだろうか!?



からだが自分のものなのだとしたら、だから、どうしようと自分の勝手でしょ、というのもわかるけれど、もし自分のものとはいえなかったら?





自分のからだは他のだれのものでもない。だから自分のものだ、と思う。



でも、他のだれのものでもないからといって自分のものとはかぎらない。太陽も空も海もだれのものでもないし、自分のものでもない。



他人は他ならぬこのからだを見て某(わたし)だと認識するのだから、わたしのものだ、と思う。



まさに、自分は他の人のからだを見て他の人を認識する。けれど某のからだすなわち某というわけではない。某のからだが目の前に無くても某は存在する。



わたしのからだは、わたしが作ったわけではない。だれが作ったのだろう? 人間は二足歩行のロボットをやっと作れただけ。



 わたしが購入したものでもない。臓器は買えるけれどからだは買えない。買えるのはせいぜいロボットだ。そしてそれはもちろん自分ではない。



 わたしが選んだわけでもない。縁あってこのからだなのだとしか言いようがない。



 わたしの意志で動いているわけではない。わたしの意志とは無関係に機能しつづけている。わたしの意志に従う部分はほんのわずかだ。それもだんだん減ってくる。



 わたしのからだはDNAを基にして形成され、そのプログラムにのっとって働き、止まる。DNAのすべてを解明したとしても自分は解明されない。



 からだの1部が欠けたって自分は変わらない。からだは大損傷をうけてもいのちに別状はなかったりする。からだは「ここ」でこころは「あそこ」だったりする。夢のなかでは自分は大空を飛翔したりする。ああ不思議。



からだすなわち自分ではない。からだすなわちいのちでもない。からだすなわちこころでもない。からだすなわち脳でもない。からだは目に見える。けれど、自分も、いのちも、こころも目には見えない。じゃあ、このからだとはなんなのだろう。





からだは、自然、なのですね。



ネコやゴキブリや鮭や桜の木やタンポポと同じ自然だ。



そして人間だけが、からだという自然と自分という意識とを重ねあわせることができる。おなじではないけれど不可分にみなすことができる。



からだは売ってもこころは売らぬ、という。



からだをあずけて自分をあげる、ともいう。



どちらも、いえる。



からだを大事にし、からだと上手につきあう必要があるのは、からだが自分のものだからではない。からだは自然に他ならないからなのだ。いいかえれば自然からのお預かりもの、この世でお借りしているもの。ゆめゆめ粗略に扱うことなかれ。

sexbaマンション

連載を終了したコラムです。

住人一覧はこちら

プロフィール

いけがみちずこ

10歳の時「掃除は女の仕事」とクラスメイト(男子)に言われて「変だ!」と思い、15歳にして学を志し「アメリカ女性史」を学ぶも疑問は一切解決せず、30歳にして「ウーマンズボディー」に出会い救われ、35歳にしてハワイにわたりハワイ大学性と社会太平洋研究所の設立を手伝い1期生としてセクソロジーを学び、エイズをとおして性と社会をみなおしはじめる。 「性ってなんだろう」(著作)、「文化としての妊娠中絶」(翻訳)など多数発表。45歳より日本でエイズに関する予防とケアの民間活動を仲間と始める。 ハワイではスキューバダイバーだったけど日本では温泉にひたってシアワセ。