遊郭

「吉原炎上」のウソ 44/最終回

久野は勇吉が結婚していると知って遊廓から逃げ出して、それを確認しにいきます。それが事実であると知り、死のうとしてか、川縁を歩いているところを助けてくれたのが東幹久演ずる外務官僚の大倉修一郎です。

絶望した久野は「笑わない花魁」として出直して、ここに大倉は客としてやってきます。趣味で絵を描いている大倉は彼女の絵を描きたいと言い、絵だけを描いて帰っていきます。ここから大倉と久野のロマンスが始まります。

原作では、張見世に出た当初、恥ずかしさを押し殺すために無表情でいたとあるだけで、「笑わない花魁」というのは完全な創作です。

すでに書いたように、張見世において、娼妓たちは客に媚びるようなことはしませんでしたから、おそらく誰も過剰にニコニコしたりはしなかったはずです。そのため、久野が恥ずかしいために無表情でいたところで許されたのでしょう。

しかし、ドラマのように、二人になっても無愛想でいたなら、客がつくはずがない。このようなエピソードを加えたのは、「美人だったら、客がつく」「男は女の肉体があれば満足できる」というバカげた思い込みによるものでしょう。今も昔も、そんな簡単な世界ではないってばさ。

お伽噺だったらいいとして、この点もまた原作つきのドラマでやってはいけない創作なのではないだろうか。悪い意味での「漫画的創作」です。

ドラマで大倉と結婚したように、原作でも久野は客と結婚しています。伊藤博文からの声がかかって久野が出た座敷に、井上馨、山県有朋らととも坪坂義一という官吏が来ていて、ここで久野を見初めた坪坂は、これ以降、毎週のように久野がいる角海老に通います。

そして年季明けを待って結婚。これが斎藤真一の祖父です。

年季が明けるまで待ったのは、いきなり身請けするのは、同僚の手前、気恥ずかしいためで、久野が娼妓ではなくなってから、見合いをして結婚という形をとっています。

それでも積夜具という身請けの儀式はしっかりやっていますから、同僚たちに「妻が元娼妓」ということを知られることが恥ずかしいのでなく、役人が派手に身請けをすることが恥ずかしかったのだと思われます。

今で言えば、アイドルと結婚する一般の人が、記者会見まで開いたり、結婚披露宴を公開するのは気恥ずかしいってところでしょう。

ドラマにおいても、最後は幸せに結婚しているのですから、その点はいいとして、大倉は、一度も客になることなく、絵だけを描いていたことになっています。

ここにも今の時代の、ある種の人々の感性を疑問なく投影させたのでしょう。

戦前の小説を読むと、あるいは文化人たちの恋愛沙汰についての本を読むと、その内容に驚かされることがあります。やれ友だちの妻を奪っただの、一人の男を巡って刃傷沙汰を起こしただの、婚約寸前に他の男に走っただの、三角関係に苦しんだだの。

「昔の文士や芸術家、社会主義者たちはなんと奔放だったのだろう」と思ってしまうわけですが、一般庶民も似たようなものです。キリスト教徒たちは別にして。

すでに説明したように、原作の『吉原炎上』は、久野が娘に語り、その娘が子どもに語った話をまとめたものです。久野は子どもができず、娘は養子だったのですが、実子であろうと養子であろうと、自分の過去を子どもに語っていたこと自体、今考えると奇異です。その娘が息子に語るのもまた奇異です。いかに花魁がトップレディだったとは言え。

つまりは性に関する情報を家族の中でさえももおおっぴらに語れていた時代があったってことなのではなかろうか。

ところが、ドラマでは久野が処女ではなかったことを伏せてしまったように、禁欲を善と考えるような人々によって原作は蹂躙されてしまってます。久野が処女であった方が遊廓の悲惨さが強調できるとでも考えたのでしょう。処女を崇拝したのは当時の人たちではなく、この番組を作った人々です。

処女性が重んじられたわけではない時代に、遊廓においても処女はありがたがられたわけではありません。初見世といって新人は特別扱いされましたが、これは今の時代の風俗店における新人と同じで、必ずしも処女であることを意味しません。

また、大倉が客となって久野とセックスをしていたところで何らおかしなことではなく、その後の幸せを貶めるものではない。今だってそうだと私は思います。

これではお茶の間では受け入れられないと考えたのかもしれませんが、だったらテレビで遊廓を舞台にした原作のドラマ化なんてやってはいけないってことでしょう。どうせ正しく伝えることなどできないってことなのですから。

遊廓や売買春が貶められる背景には、性の売買に対する嫌悪感だけではなく、性そのものに対する嫌悪感が関わっていそうです。

昨年末に出した『クズが世界を豊かにする』(ポット出版)において、海外のHIVキャンペーン用の動画と日本の動画を比較して、何がどう違うのかを見ています。

海外のものは、セックスそのものの肯定や礼賛から始まることが多い。だから、セックス描写も生々しい。その楽しくて気持ちがいいことの障害になるのがHIVなのだと展開されます。楽しくて気持ちのいいことを続けるために、コンドームをつけましょうと。

対して日本では、セックスそのものを伏せるべきもの、避けるべきものかのように扱います。

「吉原炎上」にも、その考え方が見事に反映されていると見ることもできます。歴史的な事実を踏みにじってまで。

ここを克服していかないと、HIVに対する有効な対策もとれないでしょう。

もちろん、そういう意識を変えることは容易ではありませんが、だからといって放棄するわけにもいかない。

売買春にまつわるさまざまを見ていくことで、我々の中のどこにバイアスがかかってしまっているのかを見極めることができると私はずっと考えています。

元に戻して、一回読み切りの話を続けるのか、「『吉原炎上』のウソ」で展開してきた話を踏襲するようなものにしていくのか、まだ決めかねていますが、これ以降もその作業を続けていくことにします。

「『吉原炎上』のウソ」シリーズはこれでおしまい。

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あなたの知らない性風俗史。
週1回の更新です。

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松沢呉一のプロフィール

1958年生まれ

大学卒業後、メディア関係のいくつかの仕事を経てライターに。

当初は幅広くこなす何でも屋だったが、30代後半からは性をテーマにすることが増え、やがて風俗ライターに。
2005年、風俗ライターの肩書きを捨て、現在は単なるライター。
風俗ライター廃業をきっかけに有料メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」をスタートさせ、毎日、1本から2本配信。
著書に『エロ街道をゆく』『ぐろぐろ』(ちくま文庫)、『風俗ゼミナール』(ポット出版)、『風俗お作法』(しょういん)、編著に『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)など多数。