遊郭

ステッキガール・戦前編

この連載の第二回に、大宅壮一という名前が出てきました。東京の八幡山という場所に、大宅壮一文庫という雑誌の図書館があります。マスコミ関係者でここに世話になったことのない人はいないと言っても過言ではない存在です。

大宅壮一は1900年に生まれ、1970年に亡くなったジャーナリストであり、評論家です。近代の日本で、もっとも影響力のあったマスコミ人の一人だと言っていいでしょう。大宅文庫は、その大宅壮一が所蔵していた雑誌をもとに設立されたものです。

この人が特別にそうだったというよりも、今と違って、かつてのジャーナリストはたいていそういうものだったりするのですが、大宅壮一は性風俗も取材の対象としていて、赤線を探訪する記事を書いたり、赤線組合の座談会の司会をやったりもしています。

この人は、「駅弁大学」「一億総白痴化」といったさまざまなフレーズを残したことでも知られます。石原慎太郎の芥川賞作品「太陽の季節」をきっかけにした「太陽族」もまたこの人の造語です。

そして、「ステッキガール」という言葉も大宅壮一によるものです(「ステッキ・ガール」とナカグロを入れる表記もありますが、ここでは「ステッキガール」で統一します)。社会主義者の集まりである「日本フェビアン協会」のメンバーだった大宅壮一は、その集まりの案内文で、同伴する女性をステッキと表現、これがステッキガールの始まりです。したがって、正確には「ステッキガール」という言葉のもとになるステッキという言葉の用法を考案としたと言った方がいいかもしれない。

この「ステッキガール」は昭和初期、つまりエログロナンセンスの時代の流行語であり、その存在自体が、マスコミで大いに話題になります。

当時、東京の繁華街は、東側に重心がありました。浅草、両国といった場所が庶民の街として栄え、渋谷や新宿は冴えない田舎町といったところ。池袋に至っては、繁華街とさえ言えない淋しい駅です。

そんな時代にあって、もっとも先端を行っていたのが銀座です。銀座のカフェーでコーヒーを飲み、散歩し(これを「銀ブラ」と言います)、買い物をするのがシャレた紳士淑女、モガ・モボのありようだったわけです。

このモガは「モダンガール」、モボは「モダンボーイ」の略で、これまた大宅壮一と新居格による造語です。

カフェー(当時は「カフェ」ではなく、「カフェー」と長音記号がつきます)は、喫茶店だけでなく、ホステス(女給)のいる飲み屋を含めた飲食店の総称で、どちらかと言えば、ホステスのいる飲み屋を意味していることが多い言葉です。これについてもまたそのうち詳しくやるとします。

そんな中、金をもらって紳士に同伴して銀座を歩いてくれたり、お茶を飲んでくれる女たちがいることが話題となり、これをステッキガールと言います。エスコートガールやコンパニオンのようなものです。

このステッキガールは存在したことが話題になっただけでなく、存在しないかもしれないことも話題になりました。「本当にいるのかどうか」が議論になっているのです。

装丁家であり、性風俗や魔術の研究で知られる酒井潔は、『日本歓楽郷案内』(竹酔書房・昭和5年)で、ステッキガールは新聞や雑誌が作った話題にすぎないと断じています。

西尾信治著『東京エロオンパレード』(昭文閣書房・昭和6年)にも【ステッキガール、円タクガールが創作と空文で生まれて消えたが、マッチガールだけは確かに、ハッキリと実在して、春のギンザステップ群に、時に御目見得する】とあって、ここでもステッキガールは創作であると見ています。なお、マッチガールというのは、宣伝用のマッチを手にして街頭に立ち、客引きをするカフェーの女給たちのことです。

実話雑誌「裏」(裏発行所)の第二号(昭和11年)に掲載された富山三郎「銀座にステッキガールがいるか?」では京橋の警察署長の【新聞雑誌の創作だね】【銀座にも夜鷹が出るなんて話は、ヨタカじゃなくてヨタだ】との言葉を紹介してます。

夜鷹は街娼のこと。戦前も街娼はいたのですが、浅草方面に老年と言っていい世代の街娼がいたり、不良少女たちが時にそういう商売をしていたとは言え、彼女らが銀座に進出するのは敷居が高かったのでしょう。銀座に街娼が大挙して登場するのは戦後のことです。

警察がそう言っているのであれば、ステッキガールの存在は怪しくなってきますが、この一文には続きがあります。

著者がその言葉を確かめようと銀座に行くと、二十歳くらいのモガに微笑みかけられ、お茶を飲むことに成功します。

彼女は自分がステッキガールであるのかどうかについては「そのようなものですわ」と曖昧ながら肯定し、彼女の友だちも同様のことをしていることを教えてくれ、約束の一時間を五分過ぎたところで、二円を受け取って消えます。二円もあれば遊廓で遊べましたから、いい商売ではあります。

「そんなものは新聞や雑誌の創作だ」と思っていた筆者は、最後の最後で、断定はしていないながら、「やっぱりいたようだ」という印象を残して、この一文は終わってます。

本が行方不明でタイトルが出せないのですが、中には女の住んでいるアパートにまで行ったことが書かれているものもあります。これも創作の可能性はあるのですが、こうなると、まさに街娼です。

これらの記述からすると、ステッキガールは存在したと考えてよく、それと同時に新聞や雑誌の創作であるというのも半分正しい。

前出の酒井潔が創作だとする根拠として、知人の女性を例に挙げています。彼女はステッキガールに間違われて面白がり、ステッキガールのフリをして取材を受けたと語っているのです。だから、「雑誌に出ているステッキガールなんてウソなのだ」ということなのですが、これこそがステッキガールが実在したことの証明になってしまってます。

銀座には三越を筆頭にデパートが数々あって、そこで働くことが女たちの憧れでした。女の就職先が少なかった時代ですから。ところが、デパートガール(これも当時からの用語です)は華やかな最先端の職業でありながら、給料は驚くほど安い。

こういった女たちが、紳士に声をかけられて、「おこづかいをあげるから、一緒に歩いてくれ」と言われれば応じたことでしょう。酒井潔の知人が取材に応じたのと同じです。

ステッキガールが話題になって以降は、声をかけられるのを待ってこづかいを稼ぐのも出てきたはずで、話題が事実を作り出していったと考えてよさそうです。金をもらう側に立てば、この問題は容易に解決です。そこが酒井潔は甘過ぎました。

大陸で戦争が始まって以降、ステッキガールの話題は消えるのですが、戦後、その内実を変えて、復活します。戦後編は次回。

パンパンの語源

では、今回は、前回も出てきた「パンパン」という言葉を深く掘り下げてみましょう。

昭和20年代の雑誌を見ていると、この言葉が頻繁に登場します。狭義の意味では街娼のことです。広義では、米兵とつきあうような女たち一般を指し、時代を経ると、売春婦一般のことを指すようにもなります。

「パンパン」の語源は諸説あって、インドネシア語から来ただの、女たちが米兵に「パンをくれ」と言ったところから来ただの、米兵が女欲しさに家のドアをパンパンと叩いたところから来ただのといった説が隠語辞典に紹介されています。

しかし、もっとも信憑性があるのは神崎清著『売笑なき国へ』(昭和24年・一燈書房)で展開されているサイパン発祥説です。この本の冒頭に「パンパン語源考」という一文があって、著者は、長らく南方にいた篠原吉太郎という人物に聞いた話を紹介しています。

以下に簡単にまとめてみます(原文のままではありません)。

----------------------------------------------------------------------

1914年(大正3年)、第一次世界大戦時に日本軍はサイパンに上陸して占領。当地では物品を与えることで、地元の女たちとセックスすることができたが、言葉が通じないため、手をパンパンと叩いて女を呼んだ。そこから『パンパン』という言葉が生まれ、やがては日本から派遣されてきた娼婦たちをも『パンパン』と呼ぶようになり、あいまい屋(娼家)のことを『パンパン屋』と呼ぶようになった。この言葉がやがては軍人、船乗りたちによって、シンガポール、香港などにも広がっていく。

やがて米軍がサイパンに上陸。日本人は収容施設に入れられるが、空腹のために、同じ日本人と、あるいは米兵とセックスをすることで食料を確保する女が出てくる。これもパンパンと呼ばれ、こういった用語が米兵たちにも知られるようになり、敗戦によって日本にやってきた米兵たちが日本にこの言葉を伝えた。

----------------------------------------------------------------------

これがサイパン発祥説です。篠原吉太郎は抑留を解かれ、翌年の1月18日に引き揚げてきたのですが、その日のうちに横須賀線の中でパンパンという言葉を聞いて驚いたと言います。

この話を神崎清が聞いたのは、昭和24年以前のことであり、記憶もまだ鮮明なはずです。また、サイパンでは、パンパンを歌い込んだ歌もあり、パンパン坂と呼ばれる坂道まであったということから、ほぼこの説に間違いはないと思われます。

これ以外にも、南方から復員兵が持ち帰ったという説が書かれているものも見つけています。そういったルートもあったのでしょうが、その前に日本に上陸していた進駐軍が持ち込んだと考えた方がよさそうです。

日本は歴史的に「集娼」の国です。つまり、ひとところに娼婦たちが集まり、娼家に雇われるという形で商売をします。

これに対して、街娼は「散娼」というスタイルの典型です。いわばフリーです。

集娼は安全が確保されやすく、客集めは経営者がやるため、宣伝、営業は自分でやらなくていい分、楽だったりもします。売春という仕事に限らず、日本はその傾向が強い。フリーよりも組織に属することを好むし、フリーよりも組織に属する人を信用するわけです。

そんな日本において、敗戦とともに、大量の街娼が登場。彼女らはこれまでの街娼のようなうらぶれた悲惨さは薄い。当時の調査を見てもわかるのですが、意識としては、今も基地周辺、あるいは六本木あたりで米兵と遊ぶ女たちにも近い。純粋に金のためであれば、赤線で働いた方が安全で確実ですから(この辺の話もいずれ詳しく書きます)。

そういった新しい女たちを呼ぶ名前として、「パンパン」という用語が重宝されて、あっという間に広がったわけです。

したがって、娼婦に限らず、米兵といちゃつくような女たちに、この言葉が拡大されて使用されたのはもっともです。対して赤線の女たちは「自分たちはパンパンではない」として、区別することを求めていたくらいで、両者はまったく別の意識をもっていたと言ってもいい(もちろん、重なる部分もあるし、重なる人々もいたのですけど)。

このパンパンという言葉はさまざまな派生語を生みます。外国人(アジア系を除く)専門を「洋パン」「外パン」と呼び、白人専門を「白パン」、黒人専門を「黒パン」(どちらもOKを「ごましお」)、日本人専門を「和パン」「内パン」などと呼んでました。

このようにパンパンたちが細分化していたことも、「単に金のためではない」ということを意味してしましょう。

また、マイナーな使用法ですが、「セミパン」なんて言葉も見られます。「セミプロ」
の「セミ」です。プロなのかどうかわからないようなパンパンたちです。

街娼や娼婦そのものが蔑視の対象である上に、パンパンは「憎き米兵といちゃついて、いい生活をするふしだらな女たち」ってことですから、当初から蔑称のニュアンスを込めた言い方もありはしますが、この時代のものを読むと、よりフラットな言葉であって、「街娼」という言葉とさして変わりがない。

雑誌「改造」の昭和24年12月号では「パンパンの世界」と題して、パンパンたちを囲む座談会が開かれています。パンパンは5名で、他は心理学者の南博と宮城音弥、当時は新進作家だった三島由紀夫など錚々たるメンバーです。この表紙に「パンパン」の文字が大書されており、いかに広く使用されていた言葉なのか、いかに一般的に言葉だったのかよくわかります。

であるがために、蔑称はまた別にあって、「ジキパン(乞食パンパン)」「パン助」「パン公」といった言葉がそれ(親愛の情を含めた使用法もあるのですけど)。

昭和20年代末になると、規制逃れのためのさまざまな業種が出てきます。そのひとつが「パンマ」です。「パンパンマッサージ」の略で、表向きはマッサージ嬢。その実、パンパン。

街娼が激減するとともに、パンパンは娼婦の別称として使用されるようになっていったわけです。なお、この「パンマ」は、高度成長期まではよく使用されていました。そういう業態が盛んだったってことです。

娼婦の別称として使用されるとともに、今度は「パンパン」という言葉が蔑称として使用されるケースも増えます。

で、いつの間にやら、この言葉を「要注意語」に指定しているメディアがあるのです。「要注意語」というのは、差別語ではないにしても、使用する場合に注意が必要な言葉ってことです。

そのため、私自身、パンパンという言葉が危うく使えなくなりそうになったことがあります。歴史的事実を記述するのに、この言葉を使えないなんてバカなことがありましょうか。あくまで要注意であって、差別的な用法でないのであれば問題はないはずですが、考えるのが面倒なので、要注意語も無条件に使わせないメディアが現実にあります。

とことん私は抵抗をして、「松沢特例」として使うことができましたが、言葉を消すことは存在を消すことでもあって、あの時代特有の街娼のありようを知るためにも、「パンパン」という言葉は使い続けたいと思ってます。

遊郭

あなたの知らない性風俗史。
週1回の更新です。

遊郭

松沢呉一のプロフィール

1958年生まれ

大学卒業後、メディア関係のいくつかの仕事を経てライターに。

当初は幅広くこなす何でも屋だったが、30代後半からは性をテーマにすることが増え、やがて風俗ライターに。
2005年、風俗ライターの肩書きを捨て、現在は単なるライター。
風俗ライター廃業をきっかけに有料メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」をスタートさせ、毎日、1本から2本配信。
著書に『エロ街道をゆく』『ぐろぐろ』(ちくま文庫)、『風俗ゼミナール』(ポット出版)、『風俗お作法』(しょういん)、編著に『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)など多数。