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ステッキボーイ

昭和初期は「~ガール」という言葉がちょっとした流行になります。前々回出てきた言葉で言えば「モダンガール」「ステッキガール」「デパートガール」「マッチガール」。それ以外にも、「ストリートガール」「ショップガール」「レビューガール」「スポーツガール」といったように、なんでも「ガール」です。

今の時代にも「チアガール」「バニーガール」「プレイガール」という言葉があるにはありますが、ちょっと古くさい印象。「デパートガール」も、今は「デパガ」。「AVギャル」「キャンギャル」「コギャル」「汚ギャル」のように、今の時代には、「ガール」ではなく、「ギャル」が好まれます。

こういった「諸ガール」に比して、「~ボーイ」は精彩に欠けるのですが、「~ボーイ」もいろいろいます。例えば「慶応ボーイ」。これもおそらく戦前からの言い方でしょう。

あるいは「ドアボーイ」。今でも給仕する人を単に「ボーイさん」とも言いますね。野球場には「ボールボーイ」もいます。

ボーイさんは中年であっても「ボーイ」です。ボーイには「奴隷」の意味があるためです。大人を子ども扱いにすること自体、小馬鹿にしているってことですね。

今はあまり使わないですが、「ゲイボーイ」「ブルーボーイ」といった言葉も昭和30年代には一世を風靡しました。中性的な男たち、女っぽい男たちののことで、今の「オネエ」みたいなものです(この時代にすでに「オネエ」という言葉はあって、同性愛者の受け身のこと。今で言えば「ネコ」のことです)。

「ステッキガール」に対する「ステッキボーイ」という言葉もありました。ただし、「ステッキガール」に比べると、使用されている例は少なくて、チラホラと戦前の雑誌や本で見かける程度です。考えてみれば、女性はあまりステッキを持ち歩きません。そこで、「ハンドバッグボーイ」なる言葉も出てきますが、これもあまり使われていません。

「ステッキガール」でさえも、そう簡単に存在を確認できないのですから、ましてステッキボーイとなると、実在したのかどうかはっきりとはわかりません。実在したとしても、ステッキガールのように、路上で客を探したわけではありませんので、確認が難しく、信憑性のあるものを探すことは容易ではありません。

ここでは、ひとつだけ例を出しておくことにしましょう。

早川雪男『エロ商売百物語』(三興社・昭和6年)という小型本があります。全十冊出た「猟奇エログロ叢書」(「PR叢書」という名称もあり)の一冊です。このシリーズは一冊一万円前後の値段で売られていたりもして、なかなか入手できないのですが、どれも非常に面白い内容です(この叢書は発禁になっていて、のちに出た改訂版は削除と伏字の連発で、意味がまったくわからなくなっている箇所があるため、買うんだったら、初版をオススメします)。

この本は六話の短編からなり、その第四話が「或るステッキ・ボーイとマダムの話」です。

麹町の大邸宅に住む佐柄木夫妻は人も羨む豪勢に暮らしぶり。しかし、夫婦関係はうまくいっておらず、結婚してから数年になるというのに、夫人は今も処女だとの噂まで流れる始末。

夫は外遊に出ることも多く、夫人は暇を持てあまし、「眉目秀麗なる青年を求む」として、遊び相手を募集する前代未聞の新聞広告を出します。数多くの応募者の中から、大学生、会社員、映画俳優、文学青年、野球選手の五名が選ばれ、それぞれ観劇用、散歩用、映画鑑賞用、会話用、スポーツ用の用途別に夫人の相手をすることとなります。

あくまで彼女は人妻であり、男らにとってデートは仕事ですから、恋愛感情を抱くようなことは御法度です。本来の「ステッキガール」の意味を踏まえた、正しい「ステッキボーイ」です。夫人としても時間潰しの相手を求めただけであって、浮気をする気はありません。どこまでも見栄えのいいステッキです。

こうして夫人は毎日給金を支払って日替わりのデートを楽しんでいたのですが、夫人の美貌に魅せられ、このルールを破る者が次々出てきて、やがては男同士の殺し合いに発展、あえなくステッキボーイたちは全員解雇となったのでした。

この『エロ商売百物語』は実話と創作が混在していて、「或るステッキ・ボーイとマダムの話」は創作です。今の時代にも、「出張ホスト募集」の広告を見て応募して、登録料を騙しとられる詐欺があるように、「美しい人妻の相手をして金をもらえたらいいな」といった男の欲望をもとに、「でも、そうはいい話はないですよ」という教訓譚になっているわけです。大人のイソップ童話みたいなものです。

社会的地位のあるマダムがそんなことをするとは思いにくいのですが、この話の面白さは、新聞広告を出したというところにあります。今であれば、ホストクラブに行くか、新宿二丁目の売り専に行くか、出会い系サイトを利用するところでしょうが、そんなものがない時代は、こういった手段を設定するしかなかったわけです。

ちなみに、当時の新聞広告は、今よりずっと規制がゆるく、値段も安かったと見えて、大新聞であっても、怪しい広告が出ていますから、今よりもずっとリアルな設定ではあったでしょう。

では、この時代に、こういった話が絶無だったかと言えばそんなことはなく、セックスまでを含めて、女が金を出して男にサービスをさせることは決して珍しくありませんでした。ある部分を見れば、今よりも大っぴらだったかもしれません。この話はまた今度。

今回は、ステッキガールの流れで、ステッキボーイを取り上げてみましたが、セックスワークの話になってないですね。すいません。

ステッキガール・戦後編

前回の続いて戦後のステッキガールの話です。

戦後になっても、しばしばステッキガールという言葉を見かけます。早い時期のものは、戦前のステッキガールについての記述だったり、戦前の使用法同様に、お供をする女性のことを指しているのですが、やがて新しい用法が出てきます。

「サンデー毎日」臨時増刊「女性と少年の犯罪特集」(昭和31年6月)には、中野謙二「「あるステッキガールの告白」という記事が掲載されています。これは新聞記者がステッキガールに聞いた話を告白調に書いたものです。

彼女は歌手を目指して上京。しかし、生活は苦しく、「ガイド嬢募集」の新聞広告を見てステッキガールとして働き出します。観光客などを相手にするガイドの仕事です。戦後のステッキガールは、フリーであった戦前のそれと違って、業者が介在するものになっていました。

料金は四時間で八百円。これを業者と女とが折半します。今の時給にすると二千円か、それよりちょっと安いくらいです。悪くないですが、常に仕事があるわけではないので、これで食べていくのは大変です。

そこで出てくるのが「特別サービス」。多くの客はこのサービスを求めます。彼女は特別サービスをしていなかったのですが、特別サービス分の料金は全額女たちのものになるため、要求に応じるステッキガールも少なくなかったのです。

という内容なのですが、この頃から、ステッキガールと言えば、派遣売春婦の代名詞となっていきます。今で言えば、ホテトル嬢です。

ただし、この記事にあるように、最初からそのような業種だったのでなく、業者の思惑とは関係なく、より稼ぐために売春をする女たちが出てきて、やがてはそれこそを目的にする業者も登場、客もそちらに流れるということになった模様。

このような業種は古くからあって、関西では「雇女(やとな)」と呼ばれていました。観光ガイドというよりは、宴会のコンパニオンですが、ここでもまた「特別サービス」をするのがいました。今だって、キャバ嬢で、そういうサービスをするのがいますから、いつの時代でも一緒です。

それがステッキガールという新しい装いで再登場したわけですが、正確に言えば、それらの業種と同様、ステッキガールは派遣売春婦の別名とまでは言えない。「中にはそういうのもいた」あるいは「そういう業者もあった」ということでしかありません。

この文章の舞台は東京ですが、ステッキガールがもっとも盛んだったのは静岡県浜松市です。そのネーミングがキャッチーだったのと、規模が大きかったため、この時代にはやたらと浜松が雑誌で取り上げられており、ステッキガールは浜松の専売特許であるかのように語られています。

例えば、「週刊大衆」(双葉社)の昭和34年8月24日号では、特別レポート「浜松に乱舞する"夜の蝶"」が掲載されています。また、「週刊新潮」(新潮社)の昭和34年12月14日号には、「小さな浜松にステッキ・ガール千人」という記事が出ています。

「週刊大衆」は、業者が摘発されたことをきっかけに、その実態を探るもの。建前上は「けしからん」と憤り、女たちには病気が蔓延しているために不潔だと警告しつつ、自分も客になってガイドする週刊誌らしい手法です。

その点、「週刊新潮」の記事は、なぜ浜松では、そうもステッキガールなる業種が栄えたのかを、是非を抜きにして的確にレポートする内容になっていて、事実関係も、こちらの方がはるかに信頼できます。この時代の「週刊新潮」の記事はしっかりしています(「今はしっかりしていない」と言っているのではないですよ。そう思ってはいますけど)。

「週刊大衆」の記事では、ステッキガールは東京を真似たものと書かれてますが、「週刊新潮」に出ている静岡県芸妓置屋組合西部連合会の会長によると、浜松よりも静岡市が先で、先に二十二もの業者があり、浜松はそれを見よう見まねで始めたものだとのことです。

昭和32年に、薬剤師と旅館業を営む人物が二人で「浜松社交クラブ」を始めたのが浜松のステッキガールの始まりで、その動機は未亡人の救済。戦争で寡婦になった女性たちが全国的に問題となっていましたが、とくに浜松市は二度の空襲で壊滅しており、そのための寡婦も多かったのです。

とは言え、客がいなければ成立はしません。戦後、浜松には航空自衛隊の駐屯地ができて、自衛隊員が客になったのだとばかり私は思っていたのですが、この記事によると、これは間違い。航空自衛隊というのはどこでもそういうものだったりするのですが、浜松では規律が厳しく、そういった場所に出入りしてはいけないことになっていたそうです。

では、誰が客かというと、地元の繊維業者です。終戦直後は、ヤミでしこたま儲け、芸者遊びをしていたのですが、この頃には凋落。遊べる金がなくなった彼らは、座敷に安価なステッキガールを呼んだというわけです。

他にも浜松でステッキガールが繁栄した理由がいくつか書かれているのですが、決定的なのはやはり売防法です。その需要を吸い上げる形になって、昭和32年に五十名だったステッキ・ガールは、翌年には十倍に激増。浜松中央署の調べでは、昭和34年2月現在で、七十業者、千二百六名。摘発された業者もあったため、この記事の時点では九百余名。

浜松は、戦後人口が急増したために警察の人員が足りない。この街にはふたつのストリップ劇場があって、そこでは全スト(全裸のストリップ)に近いものが見られるのも、警察の手が回らないため。

摘発された「三社クラブ」は売春を前提として女たちを雇い入れ、売春料金を千五百円と定め、四割を店が抜いていたため、警察もやっと動き出したというわけです。

これもいずれ詳しく書きますが、女たちが売春している事実を業者が知らず、その金も抜いていなければ、単純売春ということになって警察は手出しできず、他の業者は実際にそうしていたようです。

「漫画読本」(文藝春秋)昭和43年8月臨時増刊「プレイモア」に、大宅壮一に師事したこともある小説家の梶山季之が「現代プロスティテュート論」という一文を書いています。売防法以降、旧赤線地帯がどう変わったかを実体験に基づいて論じたもので、どの地域でも暴力団支配が進んだことがよくわかります。

この中でもステッキガールが登場。暴力団とは関係がないのですが、一回目からベッドに行くことはできないと書いています。昔ながらのステッキガールであって、ステッキガールは、あくまでコンパニオン、あくまでエスコートガールであり、あとは交渉次第、気分次第だったんですね。

さて、ここで確認しておきたいのは、売春は、業者が先行してなされるとは限らないってことです。戦前のステッキガールしかり、戦後のパンパンと呼ばれた街娼しかり。今の時代も、店の女のコらが金をもらって本番をやってしまうことに苦慮しているヘルスの店長がいますし、店に強いられることなく、客とホテルに行くホステスさんたちもいます。

世の中には「女は主体性のない受け身の存在であり、常に弱者、被害者である」と考える人たちがいて、彼らは業者を規制すれば売春はなくなると思っています。売防法もそのような考えに基づいた法律です。

しかし、現実はそう簡単ではない。梶山季之が描写しているように、安易な規制は、暴力団を介入させます。

「週刊新潮」によると、摘発されたステッキガールの派遣組織に所属していた十三人のステッキガールのうち、十人が性病に感染。病気の定期検査があった赤線時代には考えられない数字です。つまり、安易な規制は病気の対策も不可能にします。

「売春は女が強制されるもの」という考え方だけにとらわれていると現実は見えてきません。この現実は今後も繰り返し見ていくことになろうかと思います。

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あなたの知らない性風俗史。
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松沢呉一のプロフィール

1958年生まれ

大学卒業後、メディア関係のいくつかの仕事を経てライターに。

当初は幅広くこなす何でも屋だったが、30代後半からは性をテーマにすることが増え、やがて風俗ライターに。
2005年、風俗ライターの肩書きを捨て、現在は単なるライター。
風俗ライター廃業をきっかけに有料メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」をスタートさせ、毎日、1本から2本配信。
著書に『エロ街道をゆく』『ぐろぐろ』(ちくま文庫)、『風俗ゼミナール』(ポット出版)、『風俗お作法』(しょういん)、編著に『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)など多数。