遊郭
「吉原炎上」のウソ 13/遊廓と梅毒
「吉原炎上」の原作には出てくるのに、ドラマには出てこないエピソードがあります。検黴です(原作では「検梅」となってますが、正しくは「検黴」)。
遊廓では、週に1回、この検査がありました。もっぱら性病の検査です。抗生物質のなかった時代、梅毒はもちろん、淋病でさえも、そう簡単には治せず、娼妓たちは、病気が見つかると病院に隔離されます。その間は稼げず、食費は自前です。
休暇がとれるわけですから、その点だけを見れば、悪くはないようですが、娼妓たちは、そのことを何より恐れていたことが原作には記述されています。当時の検査は、見た目での判断ですから、潰瘍に白粉などを塗ってごまかしたといった話が古いものには出ています。
病気を恐れるのは当然ですが、病気があっても隠したのは、金を稼げなくなるだけでなく、病院の待遇の悪さを嫌っていたのです。病室は共同、食事は質素、寝具も粗末です。彼女たちは、普段、病院よりもずっといい環境で生活していたことを示唆します。
今考えると、杜撰ではあっても、また、完治は難しかったにしても、検黴による効果は多大です。これは数字にも出ています。
このような話をドラマでは取り上げないまま、梅毒と思わしき病気に感染して脳に菌が回って異常をきたした娼妓が出てきます。「おいおい」って話です。
15世紀から16世紀にかけて世界中に蔓延した当時の梅毒は感染力が今より強く、病気の進行も早かったようですが、今現在、梅毒が脳に至る第四期までには十年以上かかります。明治時代にはもう少し早かったとしても、娼妓が遊廓にいる間にそこまで至る可能性はほとんどない。
あったとしたら、吉原に来る以前に感染していたってことです。前回書いたように、遊廓に入る前には身体検査があって、梅毒が発見されたら働けません。しかし、当時の検査は精度が低く、表面に症状が出ていなければパスした可能性が高い。
誤解している人たちもいるでしょうが、遊廓に来る女たちは処女ばかりではありません。ドラマでは、主人公の久野は処女で吉原に来たかのようにも見えてしまいますが、現実にはそうではなかったことが原作でははっきり書かれています。
この時代に、処女をありがたがって、貞操だのなんだのと言っていたのは、キリスト教徒たちや知識人、よっぽどの堅物だけです。さもなければ、政治家や軍人、財界人たちまでが娼妓や芸妓をああも妻にしたはずがない。
久野が処女ではなかったこともなんら特別ではなく、にもかかわらず、ドラマでは、そのことを伏せてしまったのは、今の時代の価値観に合わせ、遊廓の悲惨さを必要以上に強調するためだったのでしょう。
したがって、数は少ないにせよ、吉原に来る前に梅毒に感染していた女たちがいてもおかしくはないのですが、それにしても、年季期間は通常6年までです(久野は住み替えの際に1年延期になって計7年)。吉原で第四期に至るのは極稀なのです。
仮にそういうのがいたとしたら、先天性か、セックス以外の感染の可能性もありそうです。どういう経路にせよ、吉原に来るまでに感染していたのであれば、堅気の生活をしていたところで同じことになっていただけのことですから、これを遊廓の問題とするのは大きな間違いです。
梅毒もまた抗生物質が発見されるまでは治療が難しかった病気ですが、療法がまったくなかったわけではなく、明治以降、定期検診が義務づけられていた遊廓の女たちの方が早期に発見されやすく、その分、進行も遅かったかもしれない。
もちろん、遊廓にいれば性病に感染するリスクは高く、そのため、吉原から出たあとに梅毒で亡くなった人たちも多数いたでしょうし、性病によって子どもができなくなった人たちもいます。
久野が子どもに恵まれなかったのも(著者の母親は養子です)、娼妓経験よるものかもしれず、これをもって娼妓の不幸を語るのはいいとして、デタラメはいけません。
ドラマでは、物語の進行上、描写する必要がなかっただけかもしれないですが、脳梅を登場させて、「遊廓は悲惨だ」と強調するためには、検黴があったことを伏せたかったのではないかとも疑えます。そのくらいのことは平気でやるでしょう。テレビですから。(続く)
「吉原炎上」のウソ 12/肺病の時代
ドラマ「吉原炎上」では、主人公の久野と同じ妓楼の娼妓が肺病で亡くなります。つまりは結核です。
原作にも、同じ妓楼に主人公の久野のすぐあとでやってきた小花という娼妓が肺病で亡くなったとあります。肺病に罹ったことが判明した小花は、三部屋ある自分の部屋を出されて、妓楼の隅にある行灯部屋に押し込められます。久野が抗議して移動させられるのですが、移動先も薄暗い小部屋であり、久野はひどい仕打ちを嘆きます。
すでに書いたように、中米では、娼妓の部屋は三間もありました。狭いところに監禁同然に押し込められていたように思っている人たちは驚くことでしょうが、中店以上の妓楼では、娼妓の部屋は二間あって、大店では三間あるのが当たり前。中米は、「細見」で小店扱いなのに、三部屋もあったのは特別かもしれませんけど。
もし本当に久野が妓楼のやり方をひどいと感じていたのであれば、結核のことをよく知らなかったのだとしか思えません。結核菌が発見されて間もない明治20年代のことであれば、正しい病気の知識がなかったのもやむを得ない。
結核は感染しますから、隔離するのは当然であり、妓楼の措置は間違ってません。抗生物質が出てくるまで、現在の交通事故死の何倍もの人が亡くなっていて、結核は日本人の死亡原因第一位です。民間療法はさまざまあったにせよ、安静にして抵抗力をつける以外に対策はない。
吉原の娼妓たちは、遊廓のすぐ横にあった吉原病院に行くことが可能でした。治療費は自腹ですけど。しかし、結核に関しては、病院に行ったところで、どうしようもない。病院に行かせないのでなく、行っても意味がない。
そこで、「どうせ死ぬのであれば、少しでも金を返済したい」「少しでも実家に仕送りしたい」という娼妓や、「少しでも返済させたい」という楼主がいたようでもあって、これが「遊廓はひどい」という話にもなっていくのですが、現に原作では、そんなことは書かれておらず、小花は隔離されて、ひたすら寝ているだけです。最善の方法と言ってもいいのではないでしょうか。
正岡子規など、結核で亡くなった著名人も多数いて、金があっても死ぬ。娼妓だけが死んだわけではありません。
咳をした時の唾液の飛沫などから感染する結核は、軍隊や工場など、共同生活をする場で蔓延しやすく、多くの人と肌を接する娼妓も感染リスクが高いわけですが、小花は吉原にやってきて2年で亡くなってますから、その前に感染していた可能性が大です。
遊廓に入る際には身体検査があって、結核が発覚したら働けなかったため、その段階では症状がまだ出ていなかったのでしょう。
ドラマでは、亡くなった娼妓は浄閑寺に葬られたことになっていますが、原作では姉が棺桶を引き取ったとあります。ドラマは現実を無視して、悲惨な話にしたくてしたくて仕方がないようです。
原作のように、娼妓が亡くなった時は親族が遺体を引き取り、葬ります。会社や学校で亡くなったら、親族が引き取るのと一緒です。
契約書にもそう明示されているのですが、親族が引き取ることを拒否することがあります。必ずしも冷酷ってわけではなく(そういう親族もいたでしょうけど)、葬儀を出す金どころか、遺体や遺骨を引き取りに東京まで来る金もない場合もあります。金のある家であれば、そもそも娘が娼妓になる必要はないわけで(家庭の事情ではなく娼妓になった女たちの方が多かったという意見もありますが。これについてはもっとあとで書きます)。
金を持っている馴染み客がいる場合は、親族に代わって葬儀をし、墓を作ってやることもありましたし、世話になった遊女が亡くなった時には楼主が墓を作ってやったこともあったようです。管理する人がいなくなるため、そういった墓はやがて撤去されることになったものが多いでしょうが、墓地だけでなく、遊廓内に建てられた遊女の墓が今も残っていることがあります。
親族が引き取らず、楼主も馴染みも墓を作ってくれない遊女は、浄閑寺など近隣の寺に無縁仏として葬られます。今の時代も、親族がおらず、いても遺体の引き取りを拒否すれば、公共の慰霊塔に葬られるのと一緒です。
この浄閑寺は「投げ込み寺」と言われています。この名称は多くの誤解を招いています。
この名称の由来はふたつの説があります。ひとつは安政の大地震の際に、大量の人が亡くなったため、遺体を穴に投げ入れたというもの。もうひとつは、浄閑寺には妓楼ごとに無縁仏の墓があって、そこに投げ込むように葬ったというもの。
前者は遊廓の過酷さ、無情さとはなんの関係もありません。安政の大地震では、江戸の人口の1パーセントが亡くなっていますから、亡くなったのは遊女だけではなく、近隣の人たちも多数含まれてます。一人一人を埋葬することができないくらいに多くの人が亡くなったことを表しただけの言葉が「投げ込み寺」だったわけです。
後者は遊女の哀れさの意味するものではあるのですが、妓楼が金を払って葬儀をやり、自分のところの墓に葬っているわけです。そんな義務などないのに、親族の代わりにやっているのですから、妓楼が責められるような話ではありません。
これがいつの間にか、遊女が亡くなると、葬儀もせずに寺に捨てられたという意味にされ、ドラマでもそう説明されてました。
原作では小花の遺体は姉が引き取って、浅草の墓地に葬られているのに、どうしてわざわざ改竄して、デマ話で彩る必要があるのでしょうか。娼妓がいかに悲惨か、妓楼がいかに酷薄かを強調したかったのでしょうが、酷薄なのは、こういうデマを流す人たちです。
原作において、主人公の久野と同じ楼の娼妓で亡くなったのは小花だけだったようですが、他の楼で亡くなった小萩という娼妓の話が出ています。これも肺病です。当時の吉原には三千人近い娼妓がいたのですから、毎年のように結核で亡くなっていたのでしょう。
このことを久野に教えてくれた娼妓は「遊女の悲しさ」として語っています。「この時代は、いかに多くの人たちが結核で亡くなっていたか」を語るエピソードであって、娼妓に限ったことではないのですが、親族のいないところで死んでいくのですから、強い悲しみはあったでしょう。(続く)
「吉原炎上」のウソ 11/遊女の堕胎
江戸時代は「女医者」「中条流(中條流)」と呼ばれる堕胎専門の医者がいました。この「女医者」は古川柳にも出てくる言葉ですが、女医のことではないので、ご注意ください。
遊女のみならず、武家の妻、未婚の娘などが広くこの堕胎医を利用してました。未婚の娘はわかるとして、武家の妻であれば、妊娠を喜んでもよさそうですが、不義密通によるものは都合が悪い。そのくらい不義密通がなされていたってことでもあります。
あとは下女です。妻にばれては都合が悪いし、相続の問題が生じかねませんので、主人が金を出して堕ろさせたわけです。
生むわけにはいかない遊女や、産んでも育てられない貧農の需要がもっとも高そうですが、高田義一郎著『世相表裏の医学的研究』(実業之日本社・昭和3年)によると、遊女の需要よりも一般の女性たちの需要の方がずっと高かったそうです。人数から言って当たりまえではあるのですが、それと同時に、遊女たちは上に書いたような避妊の智恵があったためです。また、医者にかかるまでもなく、自分たちで堕ろしていたためでもあります。
人数から言っても、育てられない事情から言っても、貧農の妻たちの需要があってもよさそうですが、医者を呼ぶ金がありませんので、こちらも遊女同様に自分たちで堕ろしてました。
では、医者に頼らず、どうやって堕胎をしていたのでしょうか。これについては、昭和10年に柳田国男が指導して実施した「全国産育習俗調査」に詳しく出ています。この調査は、昭和10年に、どのような習俗が行われていたのかを調べたのでなく、主に明治時代の習俗を知る世代に聞いたものです。
原文は見てないのですが、そこから引用したものを見たところ、もっとも多い方法はほおづきの根や茎を挿入するというもので、全国各地でこの方法が行われていたことがわかります。
茎で突くという証言もありますが、直接それによって流産させるのではなく、そのような成分がほおづきには含まれてました。少量であれば薬効のある成分が含まれているのですが、子宮を緊縮させる成分も含まれているので、妊婦はほおづきを食べるなと昔から言われてます。私は妊娠してなかったですが、子どもの頃に、親から「ほおづきの実は毒だから食べてはいけない」と言われたもので、どうやら流産するという話が「食べてはいけない」という教えになったもののようです。
こんな原始的な方法で堕胎できたのかどうか疑問に思ったりもしますが、原作で、久野自身がこの方法で堕胎したことが記述されています。ドラマにはない話です。久野も当初は詰め紙をしていたのですが、妊娠しないことをいいことに安心してしまい、避妊を怠ったようです。
また、「全国産育習俗調査」には水銀を使う方法も出ています。江戸時代には、堕胎薬が販売されていて、これも水銀です。母体にも危険ですから、ほおづきの方がずっとマシでしょう。
堕胎に失敗するなどして稀に出産に至る娼妓もいましたが、この場合は里子に出します。遊廓の中で間引いたとの話は聞いたことがないのですが、江戸時代までの農村部では、広範囲で間引きが行われていました。
江戸の堕胎と間引きを研究した高橋梵仙は、戦乱のなかった江戸時代に人口が増加しなかったのは、間引きのためだったと言っています。これには異論もあるのですが、「人口が増えなかったこと」についての異論であって、広く日本人が間引きをしていたことについては議論がありません。
なお、高橋梵仙の研究は『堕胎間引の研究』(財団法人中央社会事業協会・昭和11年)にまとめられています。ここでの著者名は社会事業研究所になってますが、のちに同書は、高橋梵仙名で、『堕胎間引の研究』(第一書房・昭和56年)として復刻されていますので、興味のある方はお読みください。非常に刺激的な内容です。
堕胎する方法もそれなりには知られていたのに、そうも間引きが多かったのは、生まれてすぐの子どもを殺すことに、今の我々が感じる罪悪感と同様の感情を当時の人々が感じていなかったからでもあります。死生観の違いです。長くなるので、詳しい話は省略しますが、間引きした子は再度この世に戻って来られるようにあえて粗末に葬られました。
近代に入ってからもなお間引きは続いていて、まして、この世に生まれて来なかった胎児に愛着を抱くことは考えにくく、水子供養なるものが出てきたのはここ半世紀程度のことです。
したがって、遊廓内に、子どもの墓があったとは思いにくいのです。ドラマのあの墓はいったい誰のどんな墓だというのでしょうか。
ほおづきを使って堕胎した原作に比して、ここもまた根拠のない創作であり、「遊廓は悲惨だった」と言いたいがための時代考証で言ってもあり得ないウソだと断じていいでしょう。(続く)