遊郭
「吉原炎上」のウソ 26/娼妓と女工 4
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外出は成績の良好な者に限り一ヶ月に一回位ゐは許され、部屋長、世話婦、舎監と三人もの捺印を貰って門衛所へ行き、其処で木札の門鑑と伝票を交換して漸く門を出るのだが、時間は制限されて居って昼夜とも十時までが関の山、若し規定より五分でも離れて帰らうものなら忽ち刑罰として次ぎの一ヶ月は閉門されるのだ。
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「昼夜とも十時までが関の山」とあるのは、女工は1日12時間労働の二交替制になっていることがあったためです。たとえば午前6時から午後6時まで働いて、それから外出をして、10時までに帰らなければならない。夜の勤務も同様で、朝の10時までに帰らなければならない。
仕事のあと、体を休めてから外出の準備をしていたらあっという間に時間が過ぎ、映画を観ている余裕もなかったでしょう。月に一回しか外出できないのですから、わざわざ平日に外出する人はいなかったと思いますが。
遅刻するだけで次の一ヶ月は外出できなくなり、外出先でのっぴきならぬ理由が生じて外泊しようものなら、共同生活をする部屋全体が一ヶ月間外出禁止になってしまい、時には寄宿舎全体が外出禁止になるため、うかうか外出などできません。
いかにわずかであろうとも、それなら夜業をやって金を稼いだ方がよく、年期が明けるまでの3年間で、一度として外出しなかった例も珍しくないとあります。
それでも親族に不幸があったりすれば、外出するしかないわけですが、それさえも許可が出ず、父が迎えに来て、あまりにひどい環境のため、娘を連れ帰ったなんて例も出ています。この場合は前借がなかったのでしょうが、前借があれば連れ帰ることもできない。
「自由に外出もできなかった」という遊廓に対する批判は、女工にも当てはまるものでしかないのです。
ちなみに、上に午前6時から始業と書きましたが、『女工哀史』には午前4時半から始業する工場の例が出ていて、そちらの方が標準的だった模様です。夜明けとともに始めた方が電気代が無駄になりませんので。今でも中国では、朝の7時から始まる学校や会社が多く、近代化が進むとともに、人々の生活は遅い時間にずれていくという法則がありそうです。
対して遊廓では、夕方から始まりますから、ちょうど昼夜が逆転してます。仕事を終えた男たちを相手にする仕事ですから、当然ですし、何時から始まろうと、慣れてしまえば一緒ですが、なんとなく遊廓はのんびりしていて、対して工場は厳しいような気もしてしまいます。
なぜ工場で労働者をそこまで縛り付けたのかを考えてみるに、遊廓同様、トラブルを避けるためでしょう。
ただし、このトラブルは、娼妓と女工では内容が少し違ってきます。娼妓の方が前借が高いだけでなく、娼妓は女工ほど交換が容易ではありません。客あしらいや作法を教育する必要がありますし、客は妓楼につくのと同時に、個人につきます。とくに人気のある娼妓は代用を確保しにくい。
これは今の風俗店やキャバクラでも同じで、女の子が入れ替わろうとも同じ店に通う客がいる一方で、お気に入りの女の子が移動すると一緒に移動する客たちがいます。となれば、「いつでも交換できる」というわけにはいかず、ある程度は一人一人を大事にしなければならない。
女工にも技能はあるわけですが、単純労働ですから、比較的交換は容易と言っていいでしょう。使っている数も、ひとつの工場で数百から数千ですから、どうしても一人一人を粗末に扱うことになります。親と娘という疑似家族が成立している遊廓と違い、また、小規模な徒弟とも違い、工場の経営者は工員を使い捨ての労働力と見なしていますから、女工個人の身を案じて外出させないわけではなかったと推測できます。
しかし、熾烈な労働力確保の中で、女工の引き抜きも行われていましたから、フラフラ外を歩いていたら、他の工場から引き抜かれてしまいます。さらには、公娼や私娼はもっと環境がいいことを知れば、そちらに移動するかもしれませんから、情報自体を遮断したい。
遊廓では個室で客に接してしまいますので、情報を完全に遮断することは難しかったのに対して、工場では身体を拘束すれば、これが可能になります。だから、女工が購読する雑誌にさえもチェックが入り、知恵をつけそうな雑誌は購読させなかったと『女工哀史』にあります。遊廓でも、廃娼派の出版物を読んでいたら叱られたでしょうが。
結局のところ、遊廓でも工場でも、「労働力をどうきれいに使い切るか」を踏まえた管理がなされていたわけですが、それぞれの仕事内容や規模の違いによって、管理の仕方や程度が違ってくる。その違いは、おおむね女工に対してより過酷に表れました。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 25/娼妓と女工 3
「娼妓は前借による契約で縛られていた。奴隷制度に等しい。だから遊廓はいけない」という批判は、当時の産業の多くを否定するものでしかない。他の産業でも見られたことでしかない点を無視して、遊廓のみの問題であるかのように見せかけるのは詐術と言ってもいい。
まして、これを今現在の売春否定につなげたのでは、繊維業を中心とした今現在の産業自体をも否定するしかなくなります。
むしろ遊廓はつねに警察の監視下にあり、細かな営業規則で縛られ、社会的な批判も厳しく、客という第三者を中に招き入れるしかないために、「まだしもマシだった」と言った方がいい。
現実には、昭和に入ってさえも、この国ではさまざまな産業で人身売買がなされ、無期限の奴隷制度が行われている業種もありました。私が子どもの頃、つまり昭和30年代から40年代にかけてでも、子どもを叱る際に、「サーカスに売られるぞ」というフレーズをしばしば聞いたもので、芸能や見世物の世界では、昭和に入っても、「子どもを売り買いする」ということが行われていた名残です。
また、瀬戸内海では、「かじこ」と呼ばれる船乗りの下働きがいました。昭和30年頃まで、子どもが「かじこ」として売られることがあったのです(これについて書いた本が昭和30年代に出ているのですが、現物が本に埋もれて見つからず、タイトルがわからなくなってしまいました)。この場合は、一生その地位に甘んじることもあったようなので、狭義の意味での奴隷と言ってもいい。
その中で、遊廓はまだしもマシだったことは、『女工哀史』で確認することができます。ほとんどの点において、女工は娼妓より過酷な労働環境に置かれていたと言っていいのです。
著者の細井和喜蔵は女工と娼妓を比較してこう書いています。
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公娼制度撤廃論者は、彼女(松沢注:娼妓のこと)が二重の束縛を受けてゐると唱えるが、二重の拘束に身動きならぬ者は独り公娼ばかりでなく、女工も等しく二重の奴隷的制度に縛られてゐる。日給の為の「賃金奴隷」と前借のための「満期づとめ」-----労働時間終了後に於ける寄宿舎の桎梏、これ正に公娼以上幾重もの奴隷制度でなく何であらう。
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「奴隷制度」ではなく「奴隷的制度」としているのは、狭義の奴隷ではないためでしょう。安易に「奴隷制度」という言葉を使いたがる人たちよりも細井和喜蔵は慎重です。最後は「奴隷制度」となっているのは、「女工の方が奴隷に近い」と言いたいのかも。
このことを着目した人はあまりいないのではないかと思いますが、『女工哀史』で、細井和喜蔵は公娼との比較をした上で、「女工の方がさらに過酷」とはっきり言っているのです。私だけが感じていることではないことをどうか確認していただきたい。
また、ここでは、わざわざ「公娼制度撤廃論者」を持ち出していることに留意していただきたい。「どうして彼らは、公娼制度を批判しながら、より過酷な女工については目をつぶるのか」との苛立があったことが想像できます。その意味についてはずっとあとで検討します。
細井和喜蔵は、借金によって身体を拘束されることだけをもって奴隷的制度と言っているのでなく、その他の条件を含めて比較して、女工は公娼以上の奴隷的制度だとしています。
まずは労働時間の長さです。工場での労働時間は、第一期、つまり明治初期は12時間から14時間、第二期以降は11時間から12時間となっていました。14時間だとすると、朝の8時から夜の10時までです(のちに説明しますが、当時の工場は日の出とともに操業だったため、実際の始業は5時くらいからでした。今の時代にはピンと来ないので、朝8時からにしてみました)。
これが正規の労働時間で、そのあとわずかな手当のつく「夜業」というものがあります。これを著者は「強制的残業」と書いていますが、女工たちは、わずかな金のために、喜んで夜業をしていたそうです。
他の資料を見ても、夜業のために、労働時間は時に16時間から18時間にも及ぶことがあったと言います。寝ている時間以外のすべてってことです。これでは仕事のあとに外出する暇もない。
また、週に一回の休みがとれたところで、外出は容易ではありませんでした。
このシリーズで念入りに説明したように、遊廓では外出が一切できなかったように書かれているものは間違いです。とは言え、外出できるのは、信頼を得ている娼妓であり、外出するにも楼主の許可が必要で、多くの遊廓では面倒な手続きもありましたから、とても自由に外出できたとは言えない。
では、女工はどうだったのでしょうか。『女工哀史』に出ている数え唄の中にこんなフレーズが出ています。
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十四とせ、忍び忍んで門衛まで
行けば門番にとがめられ
泣く泣く寄宿へ逃げ帰る
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どうやら女工たちも簡単には外出できなかったらしいのです。と思わせぶりに書いてみましたが、これについては『女工哀史』に具体例が多数書かれていて、女工たちも自由に外出することはできなかったのです。詳しくは次回。
「吉原炎上」のウソ 24/娼妓と女工 2
細井和喜蔵が『女工哀史』を書けたのは著者自身が職工だったからです。体験の裏付けがあるからこその内容です。女工自身しかわかりにくい点については妻に聞いています。自分たちが知らない古い時代の話は取材をしています。これにさまざまなデータが加えられています。
一部を除いて、会社名や工場名が細かく書き添えられていることがリアリティを高めています。
著者の体験だけであれば、特異な人の特異な体験でしかない可能性もあるわけですが、多様なソースを使用することによって、おそらく全国どこでも、女工たちは同じような環境で働いていたのだろうと理解できます。
しかしながら、ちょっと気になることがあります。つねに労働者の立場から書かれていることがこの本の価値を高めているのは事実として、「経営者は敵であり、労働者は搾取され、無知なままにされ続けている」という構図のもとで、過剰に悲惨さが描かれているのではないかとの疑いを抱いてしまう箇所がいくつかあるのです。
具体的にはおいおい説明していくとして、仮に少々の誇張があるのだとしても、「『吉原炎上』のウソ」シリーズにとっては意味があります。
人は冷静な評価をしようと思っても、自分の立ち位置によってどうしてもバイアスがかかってしまうものです。過剰に遊廓の悲惨さばかりを強調する人々の書くことと比較することで、その内容を相対化でき、遊廓の悲惨さこそ、『女工哀史』以上に過剰に強調されたものでしかないことがわかってきます。こちらの場合は、しばしば「冷静に判断しようとしたのにそうなってしまう」のでなく、意図的にそうしたものだろうことも想像できてしまいます。つまり、デマってことです。
では、具体的に『女工哀史』の記述を見ていくことにします。
細井和喜蔵は労働者の募集方法を基準にして、大きく時代を三期に分けています。
第一期は「無募集時代」。明治初期のことです。工場労働の実態がわからなかったこともあって、工場に行くことに対する抵抗は薄く、農村においては新たな働き口として歓迎され、募集をしなくても人が集まった長閑な時代です。
第二期は「自由競争時代」。工場が大規模になり、数も増え、労働の実態が知られるようになったため、労働力の確保が熾烈とになります。その結果、「年期制度」が導入されて、前借(ぜんしゃく)で女工を拘束し、情報が漏れないように、親族との連絡も断絶させられ、親を騙して契約書にサインさせたり、誘拐と言えるような方法まで駆使されるようになります(本当にこんなことが行われたのかどうか怪しくもありますが)。『女工哀史』で取りあげられているのは、もっぱらこの第二期以降です。
第三期は「募集地保全時代」。無秩序な募集によって働き手を提供してきた農村が荒らされ、場当たり的な手段では安定した労働力が確保できなくなります。そのため、募集方法を制度化していきます。詐欺や誘拐めいた手法が使えなくなったという意味では、いくらかは改善されたとも言えます。
ここで注目していただきたいのは第二期にある「年期制度」です。前借はあったりなかったりするわけですが、よくドラマや小説に出てくる丁稚も年期制度のひとつで、「奉公制度」とも呼ばれます。
丁稚の間は休みもなく、自分の時間なんてものはないに等しい。給料もなく、こづかいしかもらえません。布団さえ与えられず、土間に寝たり、物置に寝たり。時には殴る蹴るの暴力も。
この場合は、将来、暖簾分けなどをして独立することや店を継ぐことが見返りとして与えられます。芸人や職人の徒弟制度もこれに近い。
娼妓や芸妓の年期制度は、将来の保証ではなく、前借という借金で労働を提供させるものであり、近代的な産業においても、第二期以降は、この制度が導入されます。
しばしば遊廓はこの年期制度によって非難されます。借金によって契約の期間、身体を拘束されて労働を強いられるのですから、今の時代から見れば人権侵害であることは明らかであり、このことから公娼は、「奴隷制度」として語られがちです。
しかし、奴隷は一生その身分から逃れることができないのに対して、娼妓は借金を返済すればいつでも遊廓から出られます。借金を返済しなくても、6年で満期となって、借金が残っていても棒引きです。
これを奴隷制度とするのは、本当の奴隷の意味を見失わせますし、年期制度は日本の多くの産業で見られたことでしかないのですから、かつての日本は奴隷制度が公然と行われていた国ということになり、ことさら遊廓だけが非難されるのはおかしい。非難するなら、それらの産業すべてを非難しなければならず、国の制度そのものを非難しなければならない。
これだけを切り取って非難する人たちは、勉強不足か、売春がらみであればどんな詐術を使ってもいいと思っているか、どちらかです。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 23/娼妓と女工 1
明治時代、娼妓になれるほどの器量がなく、学歴も技能もない女子がまとまった現金収入を得るには、女工になるのがもっとも確実な方法でした。
工場で働くには身体検査があって、病気持ちでは働けませんでしたが、小学校さえ出ておらず、見た目が美しくなく、粗野な言動しかできなくても、体さえ丈夫であれば雇ってくれましたから、遊廓より、ずっと広く門戸を開いていたわけです。
しかし、女工の生活は、遊廓の比ではなく悲惨でした。その実態は、かの細井和喜蔵著『女工哀史』に活写されている通りです。
今も岩波文庫で読めるので、興味のある方はぜひ読んでいただきたいのですが、『女工哀史』は明治時代、大正時代の女工の実態を生々しく描いています。
前回書いたような、「借金で縛られて、自分の意思で辞めることはできなかった」「自由に外出することもできなかった」「稼いだ金のほんの一部しか手にできなかった」などなどの遊廓批判に対して、私は「そんなもん、日本中の多くの産業で行われていたことに過ぎず、遊廓に限ったことではない。『女工哀史』を読め」といったことをこれまでに何度か書いてますが、『女工哀史』の具体的な記述を取りあげて、遊廓と比較したことまではなく、また、他の人が近代に入ってからの日本の産業と遊廓を比較しているのをあまり見たこともないため、この機会にこの作業をやっておくことにしました。
もともとこの連載は、古いセックスワークのありようを説明する軽い読物のはずだったのですが、たまたまドラマ「吉原炎上」を観てしまったため、放置するわけにはいかなくなり、延々とこのシリーズが続いてしまっています。ドラマ「吉原炎上」を批判するというよりも、あのドラマをネタに、遊廓に関する誤解や歪曲を是正することを主眼にしており、その点で、他産業との比較をするのは重要な意味をもちます。そうすることで、なぜ当時の人たちは、「はした金」とも言えるわずかな金で、自分の娘をそうもたやすく遊廓に送り込むことができたのかも理解できるはずです。
これ以降、細井和喜蔵『女工哀史』に記述された女工の生活と、吉原の娼妓について比較していくとします。「『吉原炎上』のウソ」シリーズ内シリーズ「娼妓と女工」です。10回以上続きます。その間、「吉原炎上」はほとんど出てこないと思います。ご了承ください。
『女工哀史』は戦前の版も所有しているのですが、伏せ字があるため、戦後、最初に出た昭和29年の改造社版を元本にします(伏せ字を埋めたのは小説家の藤森成吉。細井和喜蔵を改造社に紹介し、この本が世に出るきっかけを作った人物であり、この戦後版には藤森成吉の「あとがき」も掲載されています)。
『女工哀史』という作品を理解していただくため、まずこの本の著者である細井和喜蔵について紹介しておきます(以下、序文に書かれている内容を中心にまとめています)。
細井和喜蔵は1897年、京都府に生まれました。婿養子の父は和喜蔵が生まれる前に実家に帰り、母は七歳の時に水死。面倒をみてくれていた祖母も13歳の時に亡くなって小学校5年で学校に行けなくなり、機屋の小僧になります。
以来、12年間、職工をしていました。
大阪の工場にいた時に、小指を機械で潰してしまうのですが、それに対してなんの補償もなく、それどころか「ぼんやりしているからだ」と叱られます。そのことをそのまま受け入れ、恨むこともなかったのですが、やがては工員の待遇に疑問を抱くようになり、組合運動に身を投じます。
ブラックリスト入りしたため、大阪では雇い入れる工場がなくなって上京、亀戸の工場で働き始めます。しばらく静かにしていたのですが、この工場でも労働争議が起きて、和喜蔵も巻き込まれます。争議には勝利したものの、仲間たちから排斥され、病気のためもあって辞職。
これ以降、文筆に専念しようとしますが、関東大震災のために妻も失職して兵庫県へ。
序文にはそう書かれているのですが、妻の回想によると、関東大震災のどさくさにまぎれて、亀戸では社会主義者たちが虐殺される「亀戸事件」が起きており、組合活動家である細井和喜蔵に忠告があって逃げたというのが実際のところらしい。
たしかに、妻が失職したからと言って、わざわざ兵庫県の山中にまで行くのは不自然です。そんなことを本に書いたら発禁になりかねないため、妻の失職ということにしたのだと思われます。
兵庫県の能勢にある工場で働くことになり、12時間の労働のあと執筆し続けて完成したのが『女工哀史』でした。
原稿が完成して、再度上京、1924年(大正13)、雑誌「改造」に一部が掲載され、翌年、本にまとまります。
ここまでが序文に書かれていることですが、出版からわずか一ヶ月後、28歳で細井和喜蔵は病死。この本の評判をほとんど知ることもなかったわけです。
主たる死因は結核です。密閉された空間で24時間暮す工場労働者に多かった病気です。つまり、工場労働者だったがために亡くなったのかもしれない。文字通り命を削った作品なのです。
「自序」で、細井和喜蔵は、製糸女工についても研究したい旨を書いています(注)。『女工哀史』は買い取りのため、印税は受け取れなかったにしても、知名度があがって原稿依頼が増えたでしょうから、文筆で食うことができ、遠からずこの「研究」は実現したはずです。夭逝したことが惜しまれます。
続きます。
注:『女工哀史』が取りあげているのはおもに紡績工場と織布工場の女工事情です。繊維業が身近になくなった今の時代には、どれも同じようなものだろうとも思えてしまうのですが、製糸工場は、『あゝ野麦峠』の舞台もそうであるように、群馬や長野など、養蚕が盛んな地域にありました。対して紡績工場は、どちらかと言えば都市型です。製糸工場は近隣の農村部から人を集められるのに対して、紡績工場は全国から金を集める必要があるなど、さまざまなところに違いがあって、それを細井和喜蔵は確かめたかったのだろうと思います。
「吉原炎上」のウソ 22/前借の金額
ドラマ「吉原炎上」を観ただけでは、明治時代の日本がどんな国であったのか、よくわかりません。そんなことをドラマでいちいち説明する必要はなく、限られた時間で説明する余裕もないでしょうが、日本史の教科書を読んだところで、庶民の生活ぶりはなお十分にはわかりませんので、ああいうドラマを観ると、日本の中で、いかにも遊廓のみが悲惨であったかのように誤解してしまいがちです。
知識がなく、かつ、よく調べ、よく考えようとする姿勢がないと、そのことを「売春否定」につなげる人まで出てきます。頼む、ちょっとは調べ、ちょっとは考えてくれ。
やれ「借金で縛られて、自分の意思で辞めることはできなかった」「自由に外出することもできなかった」「稼いだ金のほんの一部しか手にできなかった」「満足な食事もできなかった」「結核で亡くなるのが少なくなかった」などと遊廓を批判し、そのことを売春そのものの否定の根拠にしている怠惰な人たちに向けて、その論理の愚劣さを明らかにしておくとしましょう。
ドラマではそこまで細かい話は説明されていなかったように思いますが、久野が岡山から吉原に来たのは、お人好しの親が保証人になって借金を抱えたためです。その返済のために久野を身売りすることになったわけですが、久野の前借(ぜんしゃく)は300円。ここから交通費などの経費分が引かれて、実際に親の手に渡ったのは120円だったと原作にあります。
これは現在で言えば、いくらくらいになるのでしょう。短期であれば、それぞれの社会的な価値に大きな変化は生じにくく、同じ商品の値段を比較すればだいたいの物価変動がわかるわけですが、明治時代ともなると、商品によって大きな違いが生じてしまいます。
銭湯の料金で比較すると、当時は今のざっと3千分の1。総理大臣の給料で言えば5千分の1。米で言えば8千分の1。新聞の朝刊購読料で言えば1万分の1。銀座の地価で言えば80万分の1(以上、週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』より)。
これだけの開きがありますから、物価の比較は難しいことを踏まえていただいて、ここでは5千分の1で計算します。久野の前借はたったの150万円です。実際に親が手にできたのは60万円ぽっち。1万分の1で計算したところで120万円にしかならない。これで6年もの間働かなければならないのはどう考えても理不尽極まりない。「今の時代に考えれば」です。
ここで考えの足りない人は「遊廓はひどい」「売春はひどい」と言い出すわけですが、ちっと待て。
現金収入がほとんどなく、よって蓄えもなく、冷害によって食うものもない貧農が、わずかな金でも渇望する事情はわかるとして、久野は士族の出です。金がなかったにせよ、両親が世情に疎くて、遊廓が何をするところかわからないということはない。
しばしば遊廓に関する本には、親は娘に詳しい事情を説明せず、時には親さえもよくわかっておらず、本人が遊廓に着いてもなおわからず、客に説明されて初めてわかって愕然とし、涙ながらに相手をするといった話が出ていますが、たいていは後世の創作でしょう。
子どもだったらそういうこともあったにしても、この時、久野は18歳であり、処女でもなかったのですから、久野自身もそのことは理解していたはずで、原作を見ても「騙された」といった話はでてきません(前借300円のうち120円しか親に渡らないことを知った久野が愕然とする描写はありますが)。
それくらい女たちが働ける場所はなかったわけです。大正から昭和になると、女学校を出た女たちが就く仕事としてデパートガール、タイピストといった先端の職種が出てきて脚光を浴びるのですが、それでも給料は驚くほど安く、今で言えば月に10万に満たない。女子のほとんどは実家に住んでいて、自分のこづかい程度稼げればよかったのでしょう。
まして明治ともなると、若い女性が現金収入を得る方法に選択肢はほとんどない。女を雇い入れたのは公務員と教員くらいでしょう。しかし、これらは学歴が必要です。
こんな時代には、家でただメシを食うくらいなら、遊廓で働いてくれた方がいいと考える親たちがいたことはそう不思議なことではないのかもしれません。家を出ていってくれるだけでも助かる。その上、十分ではないにしても、まとまった金が入ってくる。娘が人気が出て、真面目に働けば、仕送りも少しは期待できる。
なおかつ、当時は、遊廓で働くこと、働かせることに対する抵抗がなかったってことなのです。なにしろトップレディーであり、憧れの対象でさえあったのですから。さもなければ、どうして今の100万円に満たないような金で娘を遊廓に送り込むことがありましょうか。
女にとっては、結婚することがもっとも自分の商品価値を活かすことであり、とりわけ貧困層にとっては、娼妓になって金持ちに見初められるのは成功の近道という考え方さえありました。
これ以外に、学歴がなく、技能もない女が働ける場所もあるにはありました。女工です。
続きます。