遊郭
「吉原炎上」のウソ 29/娼妓と女工 7
前回書いたように、工場の食事は悲惨なものでした。
ただし、ご飯は白米で、これだけはおかわりができたそうです。細井和喜蔵は17歳の時に、小さな茶碗に12杯食べたことがあると書いています。あの献立で、どうやって12杯のごはんを食べられるのかよくわかりません。塩くらいはあったのかもしれませんが、女工たちはもっと食べたいのにおかずがなくて食べられないと書いています。そりゃあ、たくわん二切れだけでそうはメシを食えない。
白米を出したことには事情があります。もっとも質の悪い最低ランクの米で、麦や小豆の混ぜ物が入っていたりしても、三食白米を食べられるだけで労働力をを集めることができたためです。貧農では、この程度の食事もできなかったことを意味し、ロクなおかずがなくても米を食えること自体がごちそう、あるいは三食食えるだけでも贅沢だった層が広く日本には存在していて、その労働力が日本の近代化を支えていました。
これに比べて、遊廓の食事は女工よりずっとマシです。というより、比較にならないくらいに贅沢だったと言ってもいい。
明治時代だと、遅い朝食は、楼主と同じ物を食べることも多かったようです。通常、朝昼の食事代は楼主が負担です。
古くからのしきたりで、楼主と娼妓は、同じ卓袱台で食事をしない妓楼もあったようですが、私が以前読んだものでは、同じ卓袱台あるいはテーブルで食事をするとありましたので、ここには格差がない。上座に楼主が座るくらいのルールはあったにしても。
客と一緒に寝られると言っても、熟睡はできませんし、中には朝まで繰り返ししようとする客もいるため、朝食が終わってから、睡眠をとる娼妓も多く、朝食はあっさりです。
仕事が始まる前に遅い昼食をとりますが、斎藤真一著『吉原炎上』には業者が各種総菜を持って来て、その中から娼妓が選べるようになっていたと書かれています。これは自前でしょうが、妓楼が出す食事は蕎麦だけだったり、工場と同様、ご飯とみそ汁とタクワンだけで、あとは娼妓たちが好きなものを買ったということなのかもしれない。
晩飯は客とともに食べるため、妓楼からは出ないわけです。そのため、庶民では口にすることができないようなものにもありつけました。遊廓内に、あるいは遊廓外にも各種の料理屋があって、そこから取り寄せるわけですが、吉原のような大きな遊廓であれば、ありとあらゆる食事ができたと言えます。
明治に入ると、吉原には牛肉屋が二軒できていて、牛鍋やステーキのようなハイカラな食べ物も食べることができました。今も吉原の近くに古い建物の馬肉専門店があって、私はこの店ほどおいしい馬肉料理屋を知りません。ここの料理も取り寄せることができたはずです。
見栄を張る場所ですから、梅干とタクワンの食事をする客はいません。その前に食事を済ませてから来るとしても、土産を買ってくるのが粋な客です。残り物は捨てたりせず、翌朝、皆で片付けたりもしたでしょう。
女工とは比較にならないことを言うまでもなく、当時の一般庶民よりははるかにいい食事をしていたのです。
客の前でたらふく食べるようなはしたないことをせず、上品に少しずつ食べるだけでいいように、「おにぎりを夜食として用意しておいて、客の見えないところで食べるといい」という知恵が書かれたものがありますが、これはあくまで作法の問題であって、食べる気になれば食べられたってことですし、そうするのが多かったがために、たしなめる意味の教えでしょう。
客によっては食事をとらないのもいますし、馴染みをつかんでいない娼妓だと、客がつかない日もありますから、その時は自腹で食べるわけですが、金が惜しいので、タクワンと梅干し、茶漬けということもあったかもしれません。しかし、翌日、客がつけばまたうまいものを食えます。
その証拠には、古い娼妓たちの写真を見ると、ふっくらとした顔立ちが多いことに気づきます。ふっくらどころか、「太っている」と言った方がいいのさえいます。もちろん、体質がありますから、すべてがそうではないのですが、栄養失調ギリギリの女工では太ろうにも太れなかったでしょう。
斎藤真一著『吉原炎上』に掲載された自身の絵は細面の顔が多く、どれも結核患者みたいですが、これは斎藤真一の趣味であって、そうした方が薄幸なイメージになるためだと推測できます。
同じく斎藤真一の『明治吉原細見記』(河出書房新社・1985)には、写真を模写した絵が多数掲載されていて、大半がふくよかです。
着物の着付け方がだらしないように見えましょうし、襟に柄が入っているのもプロっぽく見えましょうが、これらは必ずしも娼妓だからではありません。どこが娼妓っぽいか、どこが当時の一般的な着付けかについては、そのうちまたやるとして、もっとも娼妓っぽいのは、肉付きかもしれない。
『吉原炎上』の絵より、こちらが現実に近くて、日本女性の平均より、娼妓たちは体重があったはずです。運動をするわけではなく、三味線以上に重いものを持つわけでもないのですから、太るのは当然とも言えます。
もし娼妓の写真を見る機会があったら、顔の肉付きを確認してみてください。娼妓の生活ぶりが見えてくるはずです。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 28/娼妓と女工 6
娼妓と女工が置かれていた環境の大きな差は、仕事の特性の違いから生じています。1人あたり生み出す金が娼妓の方が大きかったとともに、遊廓では職場と住居が同じです。そこに客を招き入れるため、部屋や調度品が粗末では客が寄り付かなくなる。
今現在の風俗店でも、客寄せのために豪華さや清潔さが求められます。ソープランドでは、とってつけたような彫刻がロビーにあったり、壁に大理石が使われていたり。あるいは、城や御殿のような外装だったり。トイレも、客が一回使ったら、すぐに従業員が掃除します。
「城や御殿でセックスしたいか?」という疑問もありましょうが、非日常を楽しむものなのですから、それでいいのです。ラブホだって、そういう建築様式が見られます。面白い趣向のラブホがあると聞くと行ってみたくなる人たちが現にいますから、あれで人寄せになります。私も行ってみたくなります。やることは一緒でも、高い金を出して、プールつきのラブホに行くのも現実にいますね。
また、ソープランドでもラブホでも、しばしば同業者が密集している地域にありますから、目立つ外装や内装は差別化も図れます。「壁にサンタクロースがいるラブホ」「リゾートホテルのような内装のラブホ」として印象に残る。相手のことはよく覚えていなくても。
遊廓の時代でも、時計台を設置するなど、建物自体に特徴をつける工夫はあったわけですが、今ほどの差はつけられず、その分、内装に新規なもの、珍奇なものを導入していました。斎藤真一著『吉原炎上』には、妓楼にスタンドグラスがあしらわれたり、いち早くベッドを導入していたことが記述されていると指摘しましたが、これも客寄せだと考えれば納得しやすい。これによって口コミで広がって人が来る。
また、遊廓では泊まりの遊びがメインですから、滞留時間が長く、今以上に性欲が満たされる以上のことが求められます。性欲のみの客もいたでしょうが、だったら何も泊まる必要はなく、時間の遊びで十分です。
そのため、部屋の雰囲気や清潔さが今の風俗店以上に意味を持ち、薄汚れた煎餅布団に客も寝たくはない。
今も昔も、高級店はそれにともなった高級感を出す。やることは一緒でも、そこが安い店とは違う。そうしないと、わかりやすい差別化ができない。そのため、出費がかさみ、高級店が必ずしも儲かっているわけではありません。
ステンドグラスがあるからと言って娼妓が快適に暮せるわけではないのですが、女工たちのような暮らしではなかったことをまず確認しておきます。
女工は1日11時間から14時間の労働時間を強いられ、その上、数時間の夜業が加わります。今現在でも、このくらいの労働時間が当たりまえになっている業種や会社もあるでしょう。マスコミ関係もその例外ではない。雑誌の締切前は、ライターも編集者も睡眠不足が続き、印刷会社の人たちも同様です。
しかし、私らは座ってられます。立ちっぱなしの単純労働をこれだけの時間続けるのは苦行です。
娼妓の場合、当然人によって違い、日によっても違うわけですが、客がつく時間とその準備、片付けにかかるのは、8時間から14時間といったところでしょう。夕方から朝までです。客がい続ければ24時間ということもあって、それが何日も続くこともあったわけですが、その間、客とともに酒を飲んだり、食事をしたり、睡眠をとったりもできました。客だって寝るわけですから。
対して女工たちは、食事以外、ほとんど休憩はとれず。その食事も非常に粗末で、『女工哀史』に、著者自身が工員時代に体験した献立が7日分出ていて、その内容には驚かないではいられません。「時代が違う」ではとうてい片付けられない。
例えば朝は菜汁と香々(たくあん)です。おかずはそれだけなのです。菜汁は大根の葉でも入ったみそ汁でしょう。昼は空豆と香々。夜は焼豆腐と香々。夜は焼豆腐があるだけましですけど、みそ汁はそれぞれ「〜汁」となっているので、昼と夜はみそ汁もなしだと思われます。お茶でかきこんだのでしょうか。
もちろん、味の工夫などあるはずがなく、腐りかけのものまで出る始末。そもそも腐るようなものはほとんどないですが。
他の日も、「水菜漬物と香々」「ヒジキと香々」「梅干と香々」なんて献立になっていて、これらを自由に食えるのならともかくとして、香々は二切れのみ。みそ汁も、運が悪いと具が入っていない。修行僧の献立みたいです。
7日の間に動物性タンパクは鮭が一度出ているだけです。動物性のものが乏しいのは、大量に安く仕入れて保存できる材料を使っていたためと思われて、冷凍庫、冷蔵庫のなかった時代にはやむを得なくもあるのですが、それにしたって、もう少し工夫の仕方はあるでしょうに。これでは刑務所よりひどかったかもしれない。
それもそのはず、ある工場では、3500人分の食事を作る炊事夫はたったの12人。ガスもない時代ですから、今の比較ではなく手間も時間もかかったはずで、栄養や味など考えている余地はありません。
こういった食生活ですから、ビタミン不足のための脚気などの病気になりやすい。また、体力もなく、結核などの病気にも感染しやすかったのだろうと思われます。
では、娼妓はどんなものを食べていたのでしょう。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 27/娼妓と女工 5
女工たちは外出もままならない。となれば、仕事以外の時間は敷地内にある寄宿舎で過ごすしかないのですが、ここでも厳しい規則に縛られ、親族が電話をしても取り次いでもらえない。手紙を出そうにも内容をチェックされて、工場に対する批判や不平が書かれていると破り捨てられる。実家から食べものが送られてくると取り上げられる。
遊廓ではここまでひどいことはなかったでしょう。
『女工哀史』には、女工たちが口にする歌にこんなものがあったと書かれています。
-------------------------------------------------------------
籠の鳥より 監獄よりも 寄宿ずまひは 尚辛い
-------------------------------------------------------------
「籠の鳥」は娼妓の代名詞です。しかし、それよりも寄宿舎の生活は辛い。
自分らが置かれた環境の過酷さを強調するために、広く過酷さが知られている遊廓や監獄を持ち出しているだけ、また、その実態を知らないから言えているだけのようにも思えましょうが、細井和喜蔵は、より具体的に、女工たちの方が娼妓たちよりずっと辛い環境に置かれていたことを説明しています。
細井和喜蔵は、寄宿舎を「豚小屋」と呼んでいます。娼妓が「籠の鳥」であるなら、女工は「豚小屋の豚」です。見たこともない遊廓のことを想像で批判する人たちと違い、細井和喜蔵は工場の現実を見ていたからこそ、こう呼んだのです。
そもそも労働時間が長いため、女工たちにとっての寄宿舎は寝る場所でしかなかったわけですが、それにしてもひどい環境で、個室なんてものは望むべくもなく、何十人もの女工たちが大部屋に詰め込まれ、一人当たり1畳か2畳しか与えられない。
個人の所有物は風呂敷ひとつでしょうから、1畳あれば寝ることはできますが、26畳の部屋に33人を住ませていた寄宿舎もあったと言います。『女工哀史』にはその事情が書かれていないのですが、おそらくこれは昼夜二交替制の工場でしょう。これなら寝ているのは33人のうちの半数ですから、1人当たり1畳以上確保できます。
しかし、「1人1畳もないところで生活できるはずがない」という思い込みからの推測でしかないかもしれない。今の日本人よりずっと小柄ですから、1畳足らずで寝ることくらいはできたのかも。
さらには、昼の勤務と夜の勤務で布団を共有することもありました。
冷房なんてない時代ですから、夏は人いきれで室温も湿度も上がる。汗にまみれ、シラミだらけの布団に寝る。安普請の大部屋ですから、冬は寒い。暖房費をケチるため、寒い中で震えながら寝る。
布団を共有している寄宿舎で、風邪でもひいて寝込んだらどうしたのだろうと心配になります。有給なんて制度はないですから、病気であっても休めば給料を減らされます。減らされること覚悟で休もうとしてもなかなか休ませてくれない。
しかし、多くの工場では、医療体制は充実していました。もちろんこれは労働力の低下や損失を避けるためです。狭い工場、狭い寄宿舎の中で感染性の病気が発生すると、あっという間に工員たちに広がって、工場の操業をストップするしかなくなります。それを防ぐために診察や医薬品はタダの工場が多かったそうです。
代用可能な安い使い捨て労働力だった女工さえも大量に使えなくなれば損害が大きいってことです。
それでもなお病気が蔓延することがよくあって、細井和喜蔵がそうであったように、結核になる工員が少なくありませんでした。工場にせよ、寄宿舎にせよ、一人感染者がいれば、確実に他の人にも感染する。結核にならないのがいたのは、感染しても発症しなかっただけでしょう。
感染したところで、数年の年期期間のうちに死ぬようなことはなかったでしょうから、工場としては痛くも痒くもない。「結核であれば」です。
『女工哀史』には、明治時代にコレラが発生した大阪の工場の話が出ています。工場医が患者を隠そうとして、外部の医療機関に渡さなかったため、工場の内部に蔓延。慌てた工場主は、それ以上の感染を防ぎ、治療の手間を防ぐため、医者を買収して感染者に毒を飲ませ、数百という単位の女工が殺されたと言います。
「いくらなんでもこんなことがあるだろうか」と疑わないではいられませんが、明治時代まで、コレラは繰り返し猛威をふるい、その度に万単位の人が亡くなってます。一人でもコレラが発生したとあれば、工場は操業停止になりますから、隠そうとすることは十分あり得ますし、感染した以上、死ぬ可能性も高く、だったらさっさと殺してしまった方が損害は少ないと判断したということなのでしょうか。
それでも医療体制が充実していた点だけは、遊廓よりもマシだったと言えますが、遊廓では、すでに出てきたように、多くは二間以上ある立派な部屋で、絹の布団で寝ることもできました。コレラはともあれ、安静にしていれば治る風邪のような病気であれば、医者にかかるまでもなく、自分の部屋で寝ていればいいだけのことです。火鉢くらいはありますから、冬だって凍えることはない。
遊廓でコレラが発生して娼妓たちが毒殺されたなんて話は噂レベルでも私は読んだことがありません。医療体制が充実していて殺される工場と、内部に医者はいなくとも、殺されることはなかった遊廓と、果たしてどっちがひどい環境だったのか。
細井和喜蔵が「女工の方が娼妓よりひどい」としたのは決して間違ってはいないでしょう。
続きます。