遊郭
「吉原炎上」のウソ 32/娼妓と女工 10
『女工哀史』に出てくる女工たちや、著者である細井和喜蔵は、この本の中で繰り返し公娼や私娼よりも女工が悲惨であると強調しています。
たしかに「籠の鳥」であれば、少なくとも姿を見てもらえ、声を聞いてもらえます。愛情を注ぐ人たちもいます。
しかし、「豚小屋」の女工では、それも期待できず、労働する機械に徹するしかない。
細井和喜蔵は、前回引用した文章で、「美の享楽」の自由を比較していましたが、ここでの「美」を、見た目の美しさに限るなら、娼妓の美は、客に受けるための技術であって、「娼妓には美を追求しない自由はなかった」とも言えます。
しかし、これは衣食住のすべてにおいての快適さを意味していて、ほとんどの点で、女工の労働環境は、娼妓のそれに劣っていたと言っていい。そして、肝心の収入においても、女工は娼妓に劣っていました。
労働環境は悪くとも、住まいが「豚小屋」でも、それに見合った収入を得られればいい。娼妓たちは雀の涙ほどの金しか得られなかったと言われがちです。では、女工たちはどうだったのでしょうか。
当然、時代によっても、工場によっても違い、『女工哀史』にはいろいろな数字が出ていますが、ここでは、前借50円という数字を紹介しておきましょう。これは大正11年に「婦人公論」に掲載された細井和喜蔵の文章で取りあげられた亀戸の私娼の話で、彼女が最初に女工になった時の前借です。
すでに書いたように、何を基準にするのかによってその時代の物価は大きく違いますが、大正末期だと2千分の一くらいが妥当かと思われます。つまり、今で言えばたったの10万円です。これで3年間の契約が成立し、ここまで繰り返してきたような悲惨な生活を強いられます。周旋人は、交通費はまた別に出ると言っていて、これが本当だとしても、娼妓の前借の数分の一です。
続いて給料。これもいろいろな数字が出ていますが、明細までが出ている大正11年の数字を見てみましょう。給料は40円20銭。これに残業代84銭が加わります。計50円4銭。もっと安い金額も高い金額も出ていますから、これが標準的な数字ということになるのかもしれません。
ここから実家への送金、積み立て、賄い費、共済金などが天引きされて、女工には9円45銭が渡されています。中途で辞めると積み立ては支払われず、満期まで働かせるための仕組みだったわけですが、満期まで働けば戻ってくるものですし、親元への送金も収入のうちですから、約27円が本人に支払われると言ってよさそうです。手取り分は顔面の2割以下ですが、本来もらえる額は額面の半分強ということになります。
当時の40円の給料は、今で言えば8万円くらいです。当時は、学歴によって給料には大きな差があって、学歴のない層にとって、40円という給料は決して悪くはない。
前掲の週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社・昭和56年)によると、大正12年の大工の手間賃は一日3円53銭。月にすると90円台。その半分しかないとも言えますが、資格も技能もない若い女たちが得る金としては高い部類で、飲食店の店員や子守りをやっても、これほどはもらえなかったでしょう。だからこそ、人が集まったわけです。
男は軍隊という道もあったわけですが、軍隊に入るより工場の方がはるかにいい収入を得られました。軍隊にはメシが十分に食えるメリットはあったにしても。
そのため、女子の8割が周旋人によってかき集められたのに対して、男子は8割が志願して工場にやってきました。悲惨な女工より、男の方がもっと悲惨だったとも言えます。
見栄えのいい女子であれば、遊廓なり私娼なりで働くこともできましたが、それができないなら、あるいはそれがイヤなら、他に選択肢はほとんどなかったわけですが、工場で働いて、手元に残るのは今で言えば2万円くらい。
ここから罰金も厳しく取り立てられました。寄宿舎暮しですから、遅刻や無断欠席はないにしても、仕事上のミスでも罰金をとられます。自分の過失によるものならまだしも、原料の欠陥、機械の不調によって不合格品が出た場合でも罰金です。
細井和喜蔵によれば、8割の不合格品は女工によるものではなく、それでも、製品を作るのに使った2日分の給料が引かれ、名前が張り出されます。
運が悪いと、ほとんど現金を手にできなかった女工もいたでしょう。クラブで踊ることも、メールをやる必要も、化粧をする必要もなかったため、手元に現金がなくてもそう困りはしなかったでしょうが、工場主は贅沢三昧をし、会社はたんまり金を蓄えているわけで、これほどひどい搾取はない。
これらの企業は資本の蓄積をして巨大化し、今なお残っている各種企業の礎を作っていくわけですが、あれほどまでに批判された遊廓の経営者たちは、高い税金に喘いで廃業する店があとをたちませんでした。
さて、どっちが悪徳か。
続きます。